ゆんちゃん

ゆんちゃん
夜の窓辺で女の子が星へ手を伸ばす挿絵

お父さんのことで覚えているのは、低い声で名前を呼ぶときの、最後だけ少し上がる調子だ。「ゆんちゃん」と呼ばれていた。私の名前に「ゆ」の字はあるけれど、それだけだ。なぜそう呼ばれていたのかは、今もわからない。声だけが、輪郭をなくさずに残っている。

お父さんは、いつも私の味方だった。

私が悪いことをして、お母さんに叱られているとき。自分でも悪いとわかっていて、言い返せずにうつむいているとき。お父さんは、お母さんの見えないところで、ゆんちゃんはいい子だよ、と言って頭を撫でてくれた。

悪いのは私のほうだと、十歳の私にもわかっていた。それでもお父さんは、正しさよりも私の側にいてくれた。

あれは十歳の夏、お父さんの実家に泊まった夜のことだった。

慣れない布団は重たくて、線香のにおいが薄く残っていて、外では虫がずっと鳴いていた。家のと違う天井をしばらく見上げて、それでも眠れなくて、布団を抜け出した。廊下の板が、足の裏に冷たかった。

大きな窓のカーテンを、少しだけ引いた。

声が出なかった。

うちの近所の空は、街灯のせいでいつも白っぽい。星なんて数えるほどしか見えない。でもそこの空は違った。黒の上に銀色の砂をぶちまけたみたいに、すき間なく光が散らばっていた。多すぎて、こわいくらいだった。

その中に、ひとつだけ大きい星があった。

ほかのとは違って、またたかなかった。じっとこっちを見ているみたいに、まっすぐ光っていた。

あそこにいるの、と思った。

お父さんがいなくなったことを、まわりの大人はみんな「お星様になった」と言った。意味はわかるようでわからなかった。星になるって、どういうことなのか。痛くないのか。さみしくないのか。誰も教えてくれなかった。

ただ、その星を見ていたら、どうしても手を伸ばしたくなった。

届くわけがない。そんなことはわかっていた。わかっていて、それでも窓を開けて、冷たい夜の中に、できるだけ遠くまで腕を出した。指を、いっぱいに広げた。

そのときだ。

あの星が、空からするりと落ちた。

落ちてきて、私の手のひらにおさまった。

温かかった。ちょうど人の手くらいの温かさだった。叱られている私の頭に、そっと置かれた、あの手くらいの。

握りしめた。すると、握り返された気がした。私の小さな手を、内側からそっと包み返すように。

「ゆんちゃん」

そう呼ばれた気がした。気のせいだったのかもしれない。でも私はその温かいものを両手で胸に押しつけて、目をつぶった。そこから先は、覚えていない。

朝、鳥の声で目が覚めた。

カーテンのすき間から光が入っていた。私は窓ぎわで、丸くなって眠っていた。手は、胸の前でかたく握ったままだった。

夢だ、と思った。会いたくてたまらなくて見た、ただの夢。もう十歳なのに、と自分でも思った。それでも、その右手をひらくのが、こわかった。

ひらいた。

息が、止まった。

ネックレスがあった。

古い、銀の鎖。先に、すき通った小さな石がついていた。夜のあいだ握りしめていたから、石はまだ、ほんのり温かかった。

朝の窓辺で女の子が手のひらの銀のネックレスを見つめる挿絵

うしろに、おばあちゃんが立っていた。私の手のひらをのぞき込んで、目を細めた。

「それね」

おばあちゃんの声は、すこしふるえていた。

「あんたが生まれたとき、あの子が置いていったんだよ。大きくなったら渡してやってくれって。引き出しの奥に、ずっとしまってあったのに」

おばあちゃんは、それきり何も言わなかった。私も、何も聞けなかった。

ネックレスを握ったまま、もう一度、窓の外を見た。星はもう、どこにもなかった。朝の青い空が、ただ広がっているだけだった。

夢じゃなかった。お父さんはあの夜、本当に来た。届くはずのない私の手のひらに、もう一度だけ、おさまりに来てくれた。

そのネックレスは、いまも私の首にある。

石はとっくに冷めている。あたりまえだ。あれから、ずいぶん時間がたった。お父さんの顔は、少しずつ思い出せなくなっていく。声だって、全部を覚えているわけじゃない。

それでも、最後に上がるあの調子だけは、忘れていない。私が何をしても、味方でいてくれた人の声。

「ゆんちゃん」

いまも、夜空のどこかで、私を呼んでいる気がする。