
彼女は毎朝、鏡を見る。
髪を整え、顔を洗い、薄く口紅を引く。そこまでを終えると、いつも少しだけ鏡の前に残った。何かを確かめたいわけではない。ただ、そこに映っている自分が今日も自分なのか、念のため見ているような時間だった。
顔色は悪くない。目の下の影も、寝不足の範囲で済む。服も乱れていない。人に会えば、きっと普通に挨拶できる。
けれど、鏡の中の自分には、長いあいだ温度がなかった。
その朝も同じだった。
彼女は洗面台に両手をつき、鏡の中の自分を見た。口元を少し動かしてみる。笑おうとしたのだと気づくまでに、数秒かかった。
うまく笑えなかった。
「何やってるんだろう」
声に出すつもりはなかった。けれど、言葉は小さく漏れた。洗面所の白い壁に当たり、すぐ消えるはずだった。
消えなかった。
鏡の表面が、水面のようにわずかに揺れた。
彼女は反射的に身を引いた。蛇口から落ちた水滴が、洗面台に小さな音を立てる。鏡はもう静かだった。見間違いかと思い、顔を近づけた。
その瞬間、鏡の奥から風が吹いた。
目を閉じたのは一瞬だったはずだ。けれど次に目を開けると、彼女は森の中に立っていた。
夜のように暗いのに、足元は見える。木々の葉は濡れたように光り、遠くで水の流れる音がしている。怖いはずなのに、なぜか身体は動いた。夢だと思えば説明はつく。そう思いながらも、夢にしては土の匂いがはっきりしすぎていた。
水音をたどると、小さな池があった。
彼女は池の縁にしゃがみ、水面をのぞき込んだ。そこには自分の顔が映っていた。さっき鏡で見た顔と同じはずなのに、少し違っていた。
疲れていないわけではない。若返っているわけでもない。ただ、目の奥に何かが残っている。消えたと思っていた火が、まだ細く残っているような顔だった。

水面の中の彼女が、こちらを見た。
「久しぶり」
声は、自分の声だった。
彼女は返事をしなかった。喉が詰まっていた。
「忘れたふり、うまくなったね」
水面の中の彼女は、責めるようには言わなかった。ただ、昔から知っていることを確かめるような声だった。
彼女は黙って手を見た。
右手の人差し指の横に、青いインクの染みがあった。今朝はそんなもの、なかったはずだ。こすっても落ちない。指先に、古いペンの硬さが戻ってくる。
大学ノート。安いボールペン。夜中の机。誰にも見せないまま書き続けた物語。
忘れていたわけではなかった。忘れたことにしていただけだった。
「まだ持ってるよ」
水面の中の彼女が言った。
「何を」
「書きたかった気持ち」
彼女は笑おうとして、失敗した。
「そんなもの、もう残ってない」
言いながら、自分でも嘘だと思った。残っていないなら、こんなに苦しくなるはずがなかった。
仕事が忙しくなった。読まれないものを書いて何になるのかと思った。誰かに見せる勇気もなく、見せないまま続ける根気もなくなった。そうやって少しずつ離れた。離れたのに、空いた場所には何も入らなかった。
水面に、小さな波紋が広がった。
「戻れば、また書ける?」
彼女は訊いた。
水面の中の彼女は、すぐには答えなかった。森の奥で、枝の鳴る音がした。
「たぶん、前みたいには書けない」
その答えに、彼女は少しだけ息を吐いた。励まされるより、その方が信じられた。
「でも、今のあなたで書くことはできる」
風が吹いた。木々のあいだから細い光が落ち、池の面に揺れた。彼女は水に手を伸ばした。指先が触れると、冷たい水の中に、かすかな温かさがあった。
昔の自分に戻りたいわけではなかった。
あの頃の熱を、そのまま取り戻せるとも思わなかった。ただ、置きっぱなしにしてきたものを、もう一度手に取ることはできるかもしれない。うまく書けなくても。誰にも読まれなくても。最初の一行で止まっても。
「帰るね」
彼女が言うと、水面の中の彼女は頷いた。
「うん」
「また来られる?」
「来ようとすれば、たぶん」
その曖昧さが、妙に自分らしかった。
池の奥に、鏡のような光が現れた。彼女は立ち上がり、最後にもう一度、水面を見た。そこに映る顔は、頼りなくて、疲れていて、それでもさっきより少しましだった。
鏡をくぐるようにして、彼女は現実の部屋に戻った。
洗面所の床は冷たかった。蛇口から水が一滴落ちる。鏡には、いつもの自分が映っている。けれど彼女は、すぐに目をそらさなかった。
手のひらを見る。インクの染みはもうなかった。
それでも、指先にはペンを握っていた感触が残っていた。
彼女は洗面所を出て、しばらく机の前に立った。引き出しを開けると、奥の方に古いノートが残っていた。表紙は少し曲がり、最初の数ページだけが使われている。
椅子に座る。
ペンを持つ。

何を書けばいいのかは、まだ分からなかった。書ける気もしなかった。けれど、何も書けないまま終わるのだけは、少し違う気がした。
彼女は一行目に日付を書いた。
それから、しばらく考えて、短く続けた。
「今朝、鏡の向こうで森を見た」
文字は頼りなく、少し震えていた。
それでも彼女は、次の行へペンを下ろした。