
彼女の名前を、僕は知っている。
けれど夢の中で彼女に会うとき、僕はいつもその名前をすぐには呼ばない。
呼べば、彼女が困った顔をするからだ。
彼女は僕を知らない。
少なくとも、そういう顔で僕を見る。
知らない街で、知らない男に声をかけられた人の顔。
でも、目が合うと、いつも少しだけ立ち止まる。逃げてもいいのに、逃げない。
僕はそれを待つ。
「来てくれたんだね」
毎回、同じことを言ってしまう。
もっとほかに言うことがあるはずなのに、彼女の顔を見ると、それしか出てこない。
彼女は返事に困ったように笑う。
その笑い方を、僕は知っている。
手を差し出すと、彼女は少し迷う。
それから、そっと手を重ねてくる。
指先が触れた瞬間、僕の中で、ばらばらだったものが戻ってくる。
彼女の名前。
ふたりで歩いた道。
駅前の小さな喫茶店。
雨が降ると、彼女が少しだけ歩くのを速めること。
笑う前に、唇を噛む癖。
それから、最後の日のこと。
あの日、僕は彼女にペンダントを渡すつもりだった。
たいしたものではなかった。
小さな飾りのついたペンダント。
店で見つけたとき、彼女がつけているところを見たいと思った。
約束の時間には、少し遅れそうだった。
雨が降っていた。
横断歩道の白い線。
濡れたアスファルト。
手から落ちた小さな箱。
彼女が僕の名前を呼ぶ声。
……
そこから先は、いつも途切れる。
何度思い出そうとしても、同じところで景色が欠ける。
ただ、ひとつだけわかっている。
白い病室で目を覚ましたのは、彼女だけだった。
僕には、その朝が来なかった。
彼女は僕のことを忘れた。
全部忘れたのか、事故の日の前後だけが抜けたのか、それはわからない。確かめることもできない。
けれど夢の中で会うたびに、完全に消えたわけではないのだと思う。
彼女は僕の名前を呼ばない。
でも、手を取る。
くだらない話をすると、昔と同じところで笑う。
雨の気配がすると、ほんの少し顔がこわばる。
僕を覚えていないのに、僕がいた場所だけが彼女の中に残っている。
それがうれしくて、苦しかった。
僕たちは夢の中の街を歩く。
現実にあった場所もある。たぶん、一度も行ったことのない場所もある。
ふたりで過ごした時間と、彼女が忘れてしまった時間が混ざって、ひとつの街になっているのかもしれない。
彼女はときどき、何かを思い出しそうな顔をする。
そのたびに、僕は黙る。
思い出してほしい。
でも、思い出さないでほしい。
あの日に彼女を戻したくなかった。
僕がいなくなった瞬間に、もう一度彼女を置き去りにしたくなかった。
広場に着くと、夢の終わりが近い。
空の色が薄くなり、街の音が遠くなる。
僕はポケットに手を入れる。
そこにはいつも、あのペンダントがある。
現実では渡せなかったもの。
夢の中で何度渡しても、次に会うとまた僕のポケットに戻っているもの。
最初は、渡したくなかった。
渡せば彼女が朝へ戻ってしまうから。
でも、渡さずにいると、彼女はだんだん苦しそうな顔をする。
帰り道を忘れたみたいに、同じ場所を何度も見回す。
僕のそばにいるのに、どこにもたどり着けない人の顔になる。
だから僕は、渡す。
帰ってほしいから。
本当は、帰ってほしくないのに。
「これを、君に渡したかった」
彼女は少しだけ首をかしげる。
「私に?」
「うん」
彼女が両手で受け取る。
その手つきが、あの日の続きのように見えて、僕は息を止める。
「ありがとう」
彼女はそう言って笑う。
泣きそうな顔で。
今ここで名前を呼べば、彼女は思い出すかもしれない。
そう思う夜がある。
でも、思い出したとしても、僕は彼女の朝には戻れない。
彼女だけが生きている。
彼女だけが、これから先の時間に戻れる。
だから、僕は言わない。
足元の広場が薄くなる。
彼女の姿が、朝の光のほうへ離れていく。
「ねえ」
彼女が僕を呼ぶ。
何かを聞こうとしている顔だった。
好きだよ、と言いたかった。
ずっと好きだった。
忘れられても、名前を呼ばれなくても、もう一度会える夜を待ってしまうくらいには。
でも、その言葉を渡したら、彼女はここに残ろうとする気がした。
だから僕は、別の言葉を選ぶ。
「幸せになって」
彼女の顔がゆがむ。
意味がわからないのに、心だけが先に反応しているようだった。
僕は笑おうとした。
ちゃんと笑えていたかはわからない。
「生きて」
声になったかどうかも、わからなかった。
彼女が手を伸ばす。
けれど、その手はもう届かない。
最後に、彼女が僕の名前を思い出しかけたような顔をする。
その顔を見るたび、僕は少しだけ欲張りになる。
覚えていてほしい。
忘れたままでいてほしい。
どちらも本当だった。
彼女が消える。
僕は広場に残る。
街灯の下に、ひとりで立っている。

目が覚めれば忘れてしまうのは、彼女だけだ。
僕にはもう、目を覚ます朝がない。
それでも、彼女が眠る夜になると、僕はまたあの街で待っている。
初めて会う人の顔で来る彼女に、また同じように手を差し出す。
そして、同じ場所でペンダントを渡す。
今度こそ渡せたと思いながら。
今度もまた、彼女を朝へ帰すために。