いつも忘れてしまう誰かに、また

いつも忘れてしまう誰かに、また
夢から目覚めた女性が胸元に手を当て何もないことを確かめる朝の場面

彼の名前を、私は知らない。

夢の中で会う人だった。
どこで待ち合わせているのかもわからない。ただ気づくと、私はいつも知らない街の端に立っていて、少し離れたところに彼がいる。

初めて見る顔のはずなのに、目が合うと、なぜか立ち去れなくなる。
声をかけられる前から、私はその人を待っていたような気がしてしまう。

彼はいつも、ほっとしたような顔をする。
それから、少し困ったように笑う。

「来てくれたんだね」

そう言われるたび、返事に迷う。
私は来ようと思って来たわけではない。ここがどこかも知らない。彼のことも知らない。

それなのに、知らないと言い切るには、何かが足りなかった。

彼が手を差し出す。
私は少し迷ってから、その手を取る。

指先に触れた瞬間、胸のあたりから何かがこみ上げてきた。
理由はわからない。悲しい出来事を思い出したわけでも、うれしい言葉を聞いたわけでもない。

それなのに、泣きそうになった。

私より先に、心のほうが何かを知っている。
そんな感じがした。

この手を、私は知っている。

そう思うのに、どこで知ったのかは思い出せない。

私たちは、夢の中の街を歩く。
古い建物の影を抜けたり、誰も座っていないベンチの横を通ったりする。ときどき、彼が何かを話す。天気のことだったり、遠くに見える店のことだったり、くだらないことばかりだった。

けれど、そのくだらなさが妙に懐かしい。

私は笑う。
彼も笑う。

そのたびに、彼の目がほんの少しだけ寂しそうになる。
どうしてそんな顔をするのか聞こうとして、いつも聞けない。聞いてしまったら、この夢の形が変わってしまう気がする。

雨の日の夢を見ることもある。

横断歩道の白い線。
濡れたアスファルト。
手から何かが落ちる音。

誰かの名前を呼ぼうとして、声が出ない。

……

そこで目が覚めることもあった。

でも、目が覚めたあとは何も残らない。
怖かったのか、悲しかったのか、それさえはっきりしない。

ただ、雨の日だけは、理由もなく胸が苦しくなる。
何かを忘れている気がする。忘れてはいけないものだけを、忘れてしまっている気がする。

その話を彼にしたことはない。
話そうとすると、彼の顔を見る前に言葉が消えてしまう。

ある夜、私たちは広場にいた。
街灯の明かりが足元に落ちていて、空は夜なのにどこか白っぽかった。

彼が立ち止まる。
そしてポケットから、小さなペンダントを取り出した。

夢の広場でネックレスを受け取る場面の挿絵

細いチェーンの先に、小さな飾りがついている。
彼の手のひらの上で、それは頼りないくらい軽そうに見えた。

「これを、君に渡したかった」

渡したい、ではなかった。
渡したかった。
その言い方が、少しだけ引っかかった。

「私に?」

彼はうなずいた。

私は両手でそれを受け取る。
手のひらに収まってしまうほど小さなものだった。けれど、すぐには握れなかった。落としてはいけないものを渡された気がした。

「ありがとう」

そう言うと、彼は笑った。
今まで見た中でいちばんやさしい顔だった。

けれど、その笑顔を見た瞬間、私は急に不安になった。
この人は、私に何かを言い残している。
そう思った。

「ねえ」

呼びかけると、彼は少しだけ目を伏せた。

「幸せになって」

彼はそう言った。

その言葉が、ひどく遠くから聞こえた。
やさしい言葉のはずなのに、胸が苦しくなった。

どうして今、そんなことを言うのだろう。
どうしてそんな顔で、私を見るのだろう。

足元の広場が、少しずつ遠くなる。
彼の輪郭も、街灯の光も、夜の白さも、薄い紙の向こう側へ移っていく。

「待って」

私は手を伸ばした。
けれど、何を待ってほしいのか、自分でもわからなかった。

彼が何かを言う。
声は届かない。

最後に見えたのは、彼の口元だった。
たぶん、私の名前を呼んでいた。

目が覚める。

カーテンのすき間から朝の光が入っている。
部屋はいつも通りで、机の上の本も、椅子にかけた服も、昨日のままだった。

私は胸元に手を当てる。
そこには何もない。

ペンダントなんて、つけていない。
夢の中でもらったものが、現実にあるはずがない。

それでも、手のひらにはまだ何かを受け取った感じが残っていた。
小さくて、軽くて、なぜか手放してはいけないもの。

誰に会っていたのか、もう思い出せない。
顔も、声も、歩いた街も、朝の光にほどけていく。

ただ、誰かが私を見送ってくれた気がした。

それも一度ではない。
何度も。
何度も、私が朝に戻れるように。

その人の名前を、私は知らない。

知らないはずなのに、その人を思うと胸のどこかがあたたかくなる。
さみしいのに、いとしい。
思い出せないまま、会いたくてたまらなくなる。

夜が近づくと、私は何度も時計を見る。
早く眠りたいと思う。
眠れば、あの人のいる場所へ行ける気がする。

どうか、もう一度だけ。
あの人に会えますように。


あの夢の向こうに、まだ誰かがいる。