
雨は前触れもなく降りはじめた。沢井は鞄で頭をかばいながら走り、目についた古い石造りの建物に駆け込んだ。入口の脇に小さな銅板があり、図書館、とだけ彫られている。聞いたことのない私設図書館だった。
中は静かで、紙の匂いがした。利用者の姿はない。貸出カウンターの奥に司書がひとり座っていて、沢井が会釈をすると、わずかに頷き返した。年齢の分からない人だった。若くも見えるし、ひどく年老いて見える瞬間もある。
雨が止むまでの暇つぶしのつもりで、沢井は奥の書架を歩いた。背の高い棚が並び、照明は乏しい。分類の札はどれも掠れて読めなかった。並んでいる本の背表紙には、タイトルらしいタイトルがない。人の名前ばかりが並んでいる。
自分の名前を見つけたのは、三列目の棚の、ちょうど目の高さだった。
沢井修一。同姓同名だろう、と最初は思った。珍しい名前ではない。ただ、手が先に伸びていた。布張りの、ずっしりと重い本だった。著者名はどこにもない。

最初のページには、彼の生まれた日のことが書いてあった。生まれた病院の名前、その日の天気、立ち会えなかった父親がどこで何をしていたか。父からも母からも聞いたことのない細部まで、淡々とした記録の文体で書かれている。
沢井はそこで一度、ページから目を離した。雨の音が急に遠くなった気がした。表紙を見直す。沢井修一。やはり自分の名前だった。立ち会えなかった日の父のことなど、知っているはずがない。知っているはずがないのに、そこに書かれた地名も時刻も、作り物には見えなかった。
ページを繰った。小学校の転校、祖母の葬式、最初の就職、結婚と離婚。離婚届を出した帰り、駅の券売機の前で三十分ほど動けなくなったことまで書かれていた。誰にも話していないことまで、すべて三人称で書かれている。感傷はなく、弁解もない。ただ起きたことが、起きた順に並んでいる。
校正者という仕事柄、沢井は文章の癖を見抜くのが早い。だがこの文章には癖がなかった。誰の手にも見えない。強いて言えば、書いた者がどこにもいない文章だった。
最後の記述はこうだった。
「彼は雨を避けて図書館に入った」
そこで文章は途切れ、残りのページは白かった。まだ厚みの半分も使われていない。
カウンターに本を持っていくと、司書は表紙を一瞥しただけで、貸出の手続きを始めた。止められると思っていた沢井は、拍子抜けして訊いた。
「借りられるんですか、これを」
「ご本人ですから」
司書は古い様式の貸出票に何かを書き込み、本に挟んで差し出した。
「返却期限は」
「最後の一行が入った日です」
貸出票の日付欄は空白だった。
「私が書くんですか」
「いいえ」
「では、誰が」
司書は答えなかった。ただ、本を少しだけ沢井の方へ押し出した。
「ご本人が書く本ではありません。ご本人の本です」
「その前に返すことは」
「できます」
それ以上の説明はなかった。問い返す言葉を探しているうちに、司書はもう手元の作業に戻っていた。外に出ると、雨はまだ降っていた。
その夜、沢井は本を開かなかった。開けなかった、という方が正しい。机の上に置いたまま、何度も視線だけをやった。
翌朝、目覚ましより先に目が覚めた。七時だった。机の本を開くと、白かったはずのページに文字が増えていた。
「彼は七時に目を覚ました」
書かれたのが先なのか、起きたのが先なのか。沢井はページを見つめた。インクは乾いている。乾き方では何も分からない。
その日から、沢井は実験を始めた。校正者の習性だった。おかしな原稿は、原因を特定すれば直せる。
まず、ページを開いたままにした。文字が現れる瞬間を見ようとしたのだ。だが、その時は何も起きなかった。白い余白は白いままで、沢井が息を止めても、指を動かしても、何も変わらない。
あきらめて台所へ行き、コーヒーを淹れて戻ると、さっきまで白かった場所に一行増えていた。
「彼はページから目を離し、コーヒーを淹れた」
湯が沸くより早く戻っても同じだった。
次に、赤鉛筆を取り出した。仕事で使っている、削り慣れたものだった。沢井は白いページの端に短く書いた。
「彼は明日、この本を返す」

文字はたしかに紙に乗った。けれど本文の字とは違っていた。赤く、軽く、紙の表面に引っかかっているだけの線だった。
翌朝、本を開くと、その一文は残っていた。残っていたが、その下に、本文と同じ黒い字が増えていた。
「彼は余白に、明日この本を返すと書いた」
沢井はしばらくその行を見ていた。自分が書いたつもりの言葉は、本文にはならなかった。ただ、書いたという事実だけが本文になっていた。
それから、何も決めずに行動してみた。いつもの時間に家を出ず、乗ったことのない路線に乗り、降りたことのない駅で降りた。改札を出てから行き先を決め、決めてからもう一度変えた。
夜、帰って本を開くと、そこにはこうあった。
「彼は何も決めずに家を出た。行き先を決め、すぐにそれを変えた」
沢井は、その一行に誤りを見つけられなかった。書かれる前なら逃れられるのではないかと思ったが、その思いつきも行動も、終わってしまえばただの出来事だった。
それでも、まだ記録だと思う余地はあった。沢井がしたことを、あとから正確に写しているだけかもしれない。気味は悪いが、その方がまだ理解できた。
その余地が崩れたのは、十日ほど経った夜だった。
沢井は本を開いたまま、白い余白を見ていた。眠る前に、ほんの数分だけ確かめるつもりだった。長いあいだ何も起きなかった。紙は白く、部屋は静かで、時計の針の音だけがしている。
まぶたが重くなり、そろそろ閉じようかという考えが、頭の中で形になりかけた。
その直前、行末に黒い字が滲んだ。
「彼は本を閉じようと思った」
沢井は息を止めた。たしかに今、そう思いかけていた。けれど、文字を見たからそう思ったのか、思いかけたから文字が出たのか、自分でも分からなかった。
閉じるものか、と沢井は思った。
次の行が増えた。
「彼は閉じまいと思った」
指が表紙の端から離れた。
「彼は手を離した」
そこから先は、考えるたびに遅れた。次は何が書かれるのかと待つ。待つまいとする。そんな小さな身じろぎまで、少しずつ本文の中へ入っていく。
沢井は本から目を上げた。胸の奥が冷えていた。怖いというより、自分の内側にあったはずのものを、先に紙の上で見せられた気がした。
しばらくして、沢井は本を閉じた。
仕事には行った。他人の原稿を直した。誤字を拾い、係り受けのねじれをほどき、著者に赤字を入れた。書かれたものは直せる。三十年、それを支えに生きてきた。
だが自分の本には、赤を入れる場所がなかった。入れた赤は、赤のまま余白に残った。本文は少しも動かなかった。誤りがないのだ。事実と寸分違わないものを、どう直せばいいのか。
本を読む時間は少しずつ減った。読むたびに気分が悪くなるわけではない。むしろ本文はいつも静かだった。静かすぎるから、かえってたちが悪かった。迷ったことも、やめたことも、何も感じなかったふりも、同じ温度で並んでいる。
ひと月が過ぎた頃、沢井は本を開かないことに決めた。読まなければ、ただの生活に戻れる。そう思った。
本を引き出しにしまい、上から古い封筒を重ねた。机の上が空くと、部屋は少しだけ広くなったように見えた。
一日目は、うまくいったように思えた。朝起き、仕事へ行き、他人の原稿に赤を入れた。昼に蕎麦を食べ、夜に風呂を沸かした。けれど、そのひとつひとつの後ろに、引き出しの中の本があった。蕎麦を食べたこと。風呂を沸かしたこと。本を思い出したこと。思い出さないようにしたこと。
二日目、沢井は昼食を選べなかった。いつもの店に入れば、いつもの店に入ったと書かれる。別の店に入れば、別の店を選んだと書かれる。迷った末に何も食べなかった。何も食べなかったことも、たぶん書かれるのだろうと思った。
三日目の夜、沢井は引き出しを開けた。読むつもりはなかった。ページがどれくらい進んだかだけ見るつもりだった。だが指が表紙にかかり、気づくと本を開いていた。
「彼は三日間、本を開かなかった」
「開かなければ、その間だけでも自分のものに戻ると思った」
そこに嘲りはなかった。責める調子もなかった。ただ、そうであったことだけが書かれていた。それがいちばん堪えた。
読んでいるときだけ、本に縛られるのではなかった。読まないと決めてからの方が、沢井は本のことばかり考えていた。
その夜、沢井は本を閉じたまま、長いあいだ机の前に座っていた。本文を止めることはできない。先を消すことも、書き換えることもできない。だが、手元に置いておけば、自分はいつまでもそれを読む人間でい続ける。
返すことを考えたのは、その時だった。
次の雨の日に、沢井は図書館へ行った。借りた日と同じような、急な雨だった。
司書はカウンターにいて、沢井の顔と、差し出された本とを順に見た。
「お戻しですか」
「はい」
沢井は本をカウンターに置いた。

「まだ、白いページが残っています」
司書は貸出票を抜き取った。
「お預かりします」
「返せるんですね」
「ご本人ですから」
借りる時と同じ言い方だった。沢井は何か言おうとして、やめた。代わりに、奥の書架の方を見た。名前の並んだ背表紙が、暗がりの中にどこまでも続いている。あの一冊一冊が、いつか同じように借りられ、同じように返されたのだとしたら。
「あの本は、最後の一行が入ったらどうなるんですか」
司書は本を抱え、棚に戻すために立ち上がった。
「その時は、閉架に移します。誰にも読まれないように」
それが答えになっているのかどうか、沢井には分からなかった。ただ、なぜか少しだけ安心した。
外に出ると、雨は上がっていた。濡れた舗道が夕方の光を返している。
沢井は空いた片手を、何度か握った。そこに本の重みはもうなかった。
今日のページに何と書かれたのか、ふと思いかけて、やめた。
そのことも、どこかには書かれているのだろう。けれど、今はもう手元になかった。