三十年後の留守番電話

三十年後の留守番電話
夕方の部屋で、母の遺品と充電中の携帯を前に静かに座る娘の水彩風イラスト

母の携帯を充電器につなぐと、しばらくして画面が明るくなった。

待ち受けは、どこかの海だった。父の写真でも、私の写真でもない。母が一人で旅行に行ったときのものだと思う。空が白くかすんでいて、水平線だけがまっすぐだった。

明日、電話で解約するつもりだった。必要な写真は移した。連絡先も確認した。使えそうなメモも、家族のグループに送った。

もう残しておくものはないと思っていたとき、画面の上に小さな通知が出ているのに気づいた。

留守番電話。
未再生、一件。

母は、知らない番号からの電話をほとんど取らなかった。あとで聞けばいい、と言って、そのまま忘れてしまうこともよくあった。だから最初は、病院か、親戚か、どこかの確認の電話だと思った。

それでも、明日にはこの番号を手放す。

私は少し迷ってから、再生のボタンを押した。

母の遺品のそばで、充電中の携帯に表示された留守番電話の画面へ手を伸ばす場面の水彩風イラスト

小さな雑音が流れた。風の音のようでもあり、古い録音テープのこすれる音のようでもあった。

そして、母の声がした。

けれど、それは私の知っている母の声ではなかった。もっと高くて、少し早口で、言葉の端に笑いが残っていた。

「もしもし。未来の私へ」

私は息を止めた。

録音日時は、三十年前になっていた。

そんなはずはない。母はそのあいだに何度も機種を変えている。留守番電話が三十年もそのまま残るわけがない。そもそも、そのころの母が、どうやって今のこの番号に声を残せたのかもわからない。

けれど、声はたしかに母だった。私の知っている母より若くて、写真の中で笑っている母に近い声だった。

「えっとね」

少し間が空いた。向こうで何かが揺れる音がした。カーテンか、洗濯物か、春の風か。

「今日、いい天気だったよ」

それだけだった。

助言もなかった。謝罪もなかった。秘密の告白も、誰かへの伝言もなかった。

ただ、母は三十年前のどこかで、未来の自分に向かって、今日の天気を知らせていた。

録音はそこで終わった。

なぜ、この声が今になって聞こえたのだろう。

母が残したものではない。少なくとも、母が私に向けて用意したものではないはずだった。

それなのに、その声は、母がいなくなったあとで私のところに届いた。

私はもう一度再生しようとして、やめた。もう一度聞けば、何か別の言葉が見つかる気がした。けれど、たぶん何も増えない。増えないからこそ、耳に残ってしまうのだと思った。

三十年前の母は、まだ私を知らない。母になる前の母だった。誰かと出会う前かもしれないし、もう出会ったあとかもしれない。どちらにしても、私の知らない時間を生きていた。

母が若かったことは、写真を見ればわかる。けれど、写真の中の母はいつも少し遠い。笑っていても、こちらに話しかけてくるわけではない。

でも、その声は違った。

三十年前の母が、何でもない日のことを、今ここにいる私へ言った。言ったわけではないのに、そう聞こえてしまった。

その夜、私は母の携帯を机に置いたまま、なかなか眠れなかった。画面はもう暗くなっている。通知も消えている。けれど、耳の奥では、若い母の声が何度も同じところに戻ってきた。

今日、いい天気だったよ。

たったそれだけの言葉を、母はどんな顔で言ったのだろう。部屋にいたのか、外にいたのか。誰かを待っていたのか、一人だったのか。わからないことばかりだった。

わからないまま、朝になった。

解約の電話をかけると、手続きは思っていたより早く進んだ。本人確認と、いくつかの説明。最後に、留守番電話サービスに残っているメッセージは聞けなくなる、と案内された。

「よろしいですか」

私は一瞬だけ黙った。

昨日の声を録音しておけばよかったのだと思った。証拠のように残しておけば、あとで誰かに話せたかもしれない。けれど、なぜかしなかった。

「はい」

自分の声が、思ったより静かに出た。

電話を切ると、母の携帯はただの小さな機械になった。もう誰にもつながらない。誰からも呼ばれない。

少しして、私は外へ出た。空は薄く晴れていた。暑くも寒くもなく、洗濯物がよく乾きそうな日だった。

晴れた朝の住宅街で、携帯を手に空を見上げる娘の水彩風イラスト

歩きながら、自分の携帯を取り出した。録音アプリを開く。タイトルはつけなかった。

赤い丸を押すと、画面の中で秒数が進みはじめた。

何を言うかは決めていなかった。それでも、口を開くと、言葉はほとんど迷わず出てきた。

「もしもし。未来の私へ」

少しだけ笑ってしまった。母の声が、どこかで同じように笑った気がした。

「今日、いい天気だったよ」

録音を止めた。

再生はしなかった。名前もつけず、そのまま画面を閉じた。

それが誰に届くのかは、わからない。三十年後の私かもしれないし、私ではない誰かかもしれない。

ただ、空は本当に明るかった。そしてその明るさだけは、誰のものでもないまま、しばらく私の中に残っていた。