
夢の中に、何度も訪れる町がある。
そこへ行く道は、いつも少し違う。細い坂道を上っていることもあれば、知らない駅の改札を抜けた先に出ることもある。海沿いの道を歩いていたはずなのに、気づくと石畳の路地に立っていることもあった。
けれど、町に入ってしまえば迷わない。
角を曲がれば小さな花屋がある。古い時計塔の下には、いつも白い犬が寝ている。川沿いの道を少し歩くと、緑色の扉をした喫茶店がある。
名前は知らない。
看板があるのかもしれないが、夢の中では文字を読もうとすると、いつも焦点が合わなくなる。ただ、そこが喫茶店だということは知っている。扉を開けると、奥の席に午後の光が落ちていて、店主が「いつものですか」と聞く。
いつもの。
四十を過ぎた現実の僕には、そんな注文はない。毎朝コンビニのコーヒーを買うくらいで、行きつけの喫茶店など持っていない。
それなのに夢の中の僕は、当たり前のように頷く。
店主は年齢の分からない男だった。若く見える日もあるし、ひどく年を取って見える日もある。声はいつも同じで、低く、静かだった。
「少し久しぶりですね」
そう言われることもあった。
僕は夢の中で、夢だと気づくことがある。眠っているのだと分かっているのに、町の空気だけは妙にはっきりしている。石畳の冷たさも、カップの熱も、雨上がりの匂いも、現実より現実らしいと思う瞬間がある。
目が覚めると、町の細部は少しずつ薄れていく。
けれど、喫茶店の窓際の席だけは残る。あの席から見える細い路地。向かいの壁に絡まった蔦。午後になると、どこからか鐘の音が三回だけ聞こえる。
その町がどこにあるのか、何度も調べたことがある。
地図アプリで似た道を探した。旅行先の写真を見返した。子どものころに住んでいた町の記憶かもしれないと思い、古いアルバムまで開いた。
どこにもなかった。
だから僕は、いつしかその町を、自分だけの夢だと思うようになった。人に話せば少し変な顔をされるだけだろうし、説明しているうちに、自分でもつまらない作り話のように聞こえてしまう気がした。
その日も、いつもと同じ朝だった。
駅前の横断歩道で信号待ちをしていると、隣に立っていた男がこちらを見た。年は僕より二回り近く上に見えた。灰色のコートを着て、片手に紙袋を下げている。人混みの中にいるのに、どこか輪郭だけが静かだった。
視線に気づいて顔を向けると、男は少し迷ったあとで言った。

「あの喫茶店、最近行ってますか」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「喫茶店?」
聞き返すと、男は困ったように笑った。
「緑色の扉の。川沿いの道を少し行ったところにある」
信号が青に変わった。
周りの人たちが一斉に歩き出す。僕と男だけが、歩道の端に取り残されたように立っていた。
「あなた、窓際の席に座っていましたよね」
男はそう言った。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく感じがした。
僕はその男を知らない。現実では、初めて見る顔だった。けれど、その声の調子には、どこか覚えがあった。夢の町の喫茶店で、少し離れた席に座っていた人。新聞のようなものを広げて、時々こちらを見ていた人。
そう思った瞬間、男の顔が急に見覚えのあるものに変わった。
「あなたも、あの町に?」
そう聞くのがやっとだった。
男は小さく頷いた。
僕たちは駅前の喫茶店に入った。現実の喫茶店だった。メニューの文字は読めたし、店員は水を置いて、普通に注文を取った。

それだけで少し安心した。
男の名前は三原と言った。彼も何年も前から、同じ町の夢を見ているらしい。夢の中では、古本屋に通っているという。時計塔の裏にある小さな店で、店主はいつも手袋をしている。棚の一番奥には、読もうとすると眠くなる本がある。
僕はその古本屋を知っていた。入ったことはないが、前を通ったことがある。
三原は、僕が喫茶店の店主を知っていると聞くと、ほっとしたような顔をした。
「やっぱり、僕だけじゃなかったんですね」
「ほかにもいるんですか」
「います」
三原は少し声を落とした。
「少なくとも、僕は三人会っています。みんな現実では別々の場所に住んでいて、年齢も仕事も違う。でも、あの町を知っている」
カップの中で、コーヒーの表面が小さく揺れた。
「それは、同じ夢を見ているということですか」
「そう考えるのが一番分かりやすいです」
三原はそう言ってから、すぐに首を振った。
「でも最近、分からなくなってきました」
「何が」
「あの町に、僕たちのことを知っている人がいるんです」
夢の中の住人なら、それは当然ではないかと思った。けれど三原の顔は笑っていなかった。
「現実のことまで、少し知っている。僕がこちらで風邪をひいたあと、向こうの古本屋の店主に言われました。向こうで長く起きていたから、体が冷えたんでしょう、と」
僕は何も言えなかった。
「それに、町の人たちは僕たちのことを、眠っている人とは呼びません」
「じゃあ、何と」
三原はカップを見つめたまま言った。
「向こうへ出かける人、と呼びます」
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
眠るのが怖いというより、眠ったあとで何を見るのかが分かってしまうことが怖かった。目を閉じると、緑色の扉が浮かんだ。川沿いの道。午後の光。窓際の席。
気づくと、町にいた。
雨が降ったあとのように、石畳がうっすら濡れていた。空は夕方に近い色をしている。時計塔の下で、白い犬が顔を上げ、すぐにまた眠った。
僕は喫茶店へ向かった。
扉を開けると、いつもの音がした。小さな鈴の音。カップを置く音。奥の席には誰もいない。
店主が顔を上げた。
「今日は、お連れの方はいないんですね」
僕は立ち止まった。
「三原さんのことですか」
店主は答えなかった。ただ、いつもの席を目で示した。
僕は窓際に座った。しばらくして、いつものカップが運ばれてきた。中身はコーヒーに見えるのに、香りは少しだけ違う。雨の匂いに似ていた。
「ここは、誰の夢なんですか」
ずっと聞きたかったことを、僕は口にした。
店主はカップを置いた手を引っ込めず、そのまま少しだけ黙った。
「夢だと思うほうが、帰りやすいですから」
「答えになっていません」
「答えにすると、帰りにくくなります」
店主は静かに言った。
窓の外を、人が通り過ぎた。見覚えのない女性だった。けれど、向こうはこちらに気づくと、軽く会釈をした。僕も反射的に会釈を返した。
夢の中では、知らない人にも知っているように挨拶してしまうことがある。
「三原さんは」
「古本屋にいます」
「今も?」
「ええ。向こうには、あまり戻らなくなりました」
向こう。
その言葉が、胸の中に落ちた。
「現実に、ですか」
店主は何も言わなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
目が覚めると、朝だった。
部屋の天井が見えた。スマートフォンのアラームが鳴っている。僕は手を伸ばして止めた。いつもの部屋、いつもの朝。カーテンの隙間から、白い光が入っている。
起き上がって、まず住所を思い出そうとした。
言える。番地も、マンション名も、部屋番号も思い出せる。会社の場所も、駅までの道も分かる。
けれど、それらはどこか紙に書かれた情報のようだった。
反対に、夢の町の道は、体で覚えていた。
緑色の扉までの曲がり角。時計塔の鐘が鳴る時間。雨の日だけ開く路地。花屋の前に置かれた青い鉢。
僕はスマートフォンを開き、三原から渡された名刺を探した。昨日、別れ際にもらったはずだった。
財布にも、上着のポケットにもない。
代わりに、見覚えのない紙片が一枚入っていた。
薄い紙だった。夢の喫茶店で、会計のときに出される伝票によく似ていた。そこには文字が書かれているようだったが、目を凝らしても読めない。

ただ、右下に小さな線が一本引かれていた。
喫茶店の窓から見える、あの川の流れに似た線だった。
その夜、僕は眠る前に少しだけ迷った。
行かなければいい。
そう思った。
けれど、行かないという選択ができるのは、まだこちらを本当だと思っているからかもしれない。
目を閉じると、遠くで鈴の音がした。
喫茶店の扉が開く音だった。
次に目を開けたとき、僕は窓際の席に座っていた。カップはまだ温かい。向かいの席には、三原がいた。
「久しぶりですね」
三原はそう言った。
僕は返事をしようとして、言葉に迷った。
久しぶりなのは、こちらなのか。
それとも、向こうなのか。
窓の外では、輪郭のない町が、今日も静かに続いていた。