私はずっと、お金の匂いがわかる人間だった。 財布を開いたときの、あのインクと繊維が混ざった微かな匂い。硬貨が手のひらに残す金属の残り香。それが濃い日は安心し、薄い日は夜が長くなった。
お金があるときには、駅までの道の銀杏が目に入った。 ないときには、同じ道が距離だけの空間に変わった。 見えるものの量が、いつも財布の厚みで決まっていた。
大学時代、私は古い喫茶店でアルバイトをしていた。 通りから半地下へ三段降りると、外の音がすっと遠くなる。午後になると西日が磨りガラスを通って床に届き、客の靴先だけを照らした。コーヒーの湯気が、その光の中をゆっくり横切っていく。そういう店だった。
常連に、一人の老人がいた。 毎週木曜、同じ席。注文はブラックコーヒーひとつ。文庫本を開くが、ページをめくる気配はほとんどない。読んでいるというより、そこにいること自体が目的みたいな人だった。
ある木曜、私がカウンターでフィルターに湯を注いでいると、老人がこちらを見ずに言った。
「お金というのは、何だと思う」
私は湯の落ちる速度を見ながら答えた。 「自由を買うためのもの、ですかね」
老人は笑わなかった。ただ少し間を置いて、こう言った。 「風だよ」
私は意味がわからず、手を止めた。
「握れば抜けていく。追えば向こうへ逃げる。だが自分が止まっているとき、風のほうから来ることがある」
そしてコーヒーに口をつけ、もう何も言わなかった。
帰り道、ビルの間を抜ける風が首筋を叩いた。 冷たかった。風は何も持っていなかった。何も渡してくれなかった。 老人の言葉はよくわからないまま、頭の隅に引っかかって残った。
社会に出て、私は数字を積み上げることに慣れた。 月末の口座残高を確認する癖がついた。増えた月は少し背が伸びた気がして、減った月は部屋が狭くなったように感じた。
後輩に食事を奢ると、会計のあと決まって胸の真ん中がわずかに冷えた。千円札が一枚減るたびに、自分が少し薄くなる気がした。 感謝されても、その冷えは消えなかった。
贈り物を選ぶときも同じだった。予算を決め、棚を見比べ、レジに向かう間、頭の中ではずっと天秤が揺れている。「ここまで出すべきか」「見返りはあるか」——見返りなど求めていないと思いたいのに、天秤は勝手に動く。
お金を使うたびに、何かが引き剝がされる気がした。 そして使わずにいると、今度は何かが淀んでいく気がした。 どちらにも安心がなかった。
ある年の春、仕事帰りに公園を抜けた。 陽はもう落ちかけていて、ベンチの影が長く伸びていた。風が吹いていた。桜ではない。花の季節は過ぎていた。ただ、若葉の匂いを含んだ、少し湿った風だった。
腕を広げたわけでも、立ち止まったわけでもない。ただ歩いていた。それなのに、風が体を通り抜けるとき、一瞬だけ胸の中にあった淀みが薄くなった。握っていたのでもないのに、手放したような軽さがあった。
そのとき、脈絡もなく老人の声が蘇った。 「自分が止まっているとき、風のほうから来ることがある」
あの木曜日から何年経ったのか、もう数えていなかった。喫茶店が閉じたことは知っていた。老人がどうなったかは知らない。聞ける相手もいなかった。
けれど風が体を通り抜けた瞬間に、あの声だけがはっきりと残っていた。声は覚えているのに、顔はもう思い出せなかった。
歩きながら、自分のこれまでのお金の使い方を考えた。 すべてが「減ること」への恐れで動いていた。奢るときも、貯めるときも、使うときも。風が吹いてくるのを待つのではなく、空気を両手でかき集めてビニール袋に詰めるようなことを繰り返していた。
袋の中の空気は、風ではない。
そんなことに今さら気づく自分がおかしくて、少しだけ笑った。
公園の出口近く、自動販売機があった。 並んだ缶ジュースの明かりを眺めながら、ポケットに手を入れた。小銭が指先に触れる。今度は冷えなかった。
隣のベンチに、小学生くらいの男の子が座っていた。薄い上着のまま、膝を抱えて、なんとなく所在なさそうにしている。待ち合わせだろうか。迎えを待っているのかもしれない。
私はオレンジジュースを二本買った。 一本を、男の子のほうへ差し出す。
男の子はきょとんとして、それから「ありがとうございます」と言った。声が少しかすれていた。喉が渇いていたのかもしれない。
缶を開ける音がした。 私も自分の缶を開けた。
風がまた吹いた。さっきより少し強い。ジュースの冷たさが喉を通り過ぎたあと、体の内側を、別の風が通り抜けたような気がした。
財布は、百数十円ぶん軽くなった。 でも、薄くなる感じはしなかった。
むしろ、胸のどこかで詰まっていたものが、すっと抜けた気がした。
お金は風のようなもの、と老人は言った。 あの言葉の本当の意味が今わかったとは思わない。たぶん、これからも風に吹かれるたびに、少しずつわかっていくんだろう。
ただ、缶の中のオレンジ色が夕暮れの光に透けているのを見ながら、私は思った。
百数十円が、風になった瞬間を見た、と。