
彼が先に起きていた。
台所から、味噌汁の匂いがする。窓の外はまだ薄い朝で、カーテンの端だけが白く光っていた。私は布団の中で少しだけ目を閉じ直し、包丁がまな板に当たる音を聞いていた。
「起きてるなら、手伝って」
彼の声がした。
私は返事の代わりに、わざと大きく寝返りを打った。すると台所の方で、彼が小さく笑った。何年も聞いてきた笑い方だった。少し鼻にかかっていて、疲れている朝ほどやわらかくなる。
食卓には、焦げかけた鮭と、少し薄い味噌汁と、昨夜の残りの小松菜が並んでいた。結婚してから、こういう朝がいくつもあった。この人と向かい合って朝ごはんを食べてきた時間が、身体の奥に静かに積もっていた。
私たちは、よくつまらないことで言い合いになった。
洗濯物を取り込むのが遅いとか、冷蔵庫に同じ豆腐を二つ買ってしまったとか、彼が玄関の鍵をいつも靴箱の上に置くとか。大きな理由などない。暮らしというのは、そういう小さな角がぶつかるものなのだと、その頃の私は知っていた。
でも、長く腹を立てていられたことはなかった。
夜になると、彼は決まってお茶を淹れた。湯のみを私の前に置き、何も言わずに向かいに座る。謝るわけでもない。私も許したとは言わない。ただ、お茶が冷める頃には、もう次の日の話をしていた。
春には、湖のそばの町へ行った。
駅からずいぶん歩いた気がする。土の匂いがして、木々の間から水面が見えた。彼は私より少し前を歩き、ときどき振り返って「大丈夫?」と聞いた。私はそのたびに「大丈夫」と答えた。本当は少し息が上がっていたけれど、彼に手を差し出されるのがくやしくて、平気なふりをした。
湖のほとりで、私たちはしばらく何も話さなかった。風が水面を撫で、遠くで鳥が鳴いた。彼は眩しそうに目を細め、私の方を見て笑った。
「こういう朝、また来たいね」
私が言うと、彼はうなずいた。
「来よう」
彼は短くそう言って、水面の方を向いた。
季節は、いくつも過ぎた。
古いアパートから、少しだけ広い部屋へ移った。彼は仕事で帰りが遅くなり、私は待つことに慣れていった。すれ違う日もあった。何日もまともに話せない時期もあった。それでも、洗面所に並んだ歯ブラシや、玄関に置かれた彼の靴を見ると、ここに帰ってくる人がいるのだと思えた。
ある冬、彼が高い熱を出した。
私は薬局まで走り、氷枕とスポーツドリンクを買った。帰ると、彼は布団の中で子どものように丸くなっていた。額に触れると、驚くほど熱かった。夜中に何度も起きて、水を飲ませ、汗を拭いた。翌朝、熱が少し下がると、彼はかすれた声で言った。
「いてくれてよかった」
私は何も言えなかった。そういう言葉は、正面から受け取るには少しまぶしすぎる。
さらに年月が過ぎ、彼の髪に白いものが増えた。私の手にも、細かな皺が目立つようになった。若い頃なら笑って済ませたことに、疲れて言葉を荒くする日もあった。互いに、完璧な人間ではなかった。それでも私は、彼のことが好きだった。腹を立てた日にも、口をききたくない夜にも、結局はこの人がいない暮らしを考えられなかった。
年を取ってからの彼は、少し頑固になった。
テレビの音量は大きくなるし、同じ話を何度もするし、薬を飲んだかどうかで私と言い合いになった。けれど、買い物の帰りには必ず重い袋を持とうとした。私が断ると、「まだそれくらいはできる」とむっとした顔をした。その顔が、私はどうしようもなく好きだった。
私たちは、特別なことをしたわけではなかった。朝起きて、食べて、働いて、休みの日に少し遠くのスーパーまで歩いた。季節の果物を買い、帰り道で花を見て、疲れたと言いながら同じ部屋へ戻った。そういう日が何度も続いた。続くことが、いちばん幸せだった。

私が病気になったのは、春の終わりだった。
最初は大したことはないと言っていた。彼も、そうだねとうなずいた。けれど病院へ行く日が増え、薬が増え、歩ける距離が少しずつ短くなった。彼は心配していないふりが下手で、私の前でだけ妙によく喋るようになった。
夏の終わり、私は入院した。
病室の窓からは、小さな駐車場と、植え込みの緑が見えた。彼は毎日そこへ来た。花瓶の水を替え、果物を少しだけ切り、私が食べられないと、自分で一切れ食べて「甘い」と報告した。
「悪いね」
ある日、私が言った。
「何が」
彼は少し怒ったような顔をした。
「いろいろ」
私が言うと、彼は首を振った。
「そういう言い方、やめて」
その声が震えていたので、私は笑おうとして失敗した。まだ朝ごはんの味のことも、なくした傘のことも、去年買った鉢植えのことも、話していないことが山ほどあった。いろいろ、なんて一言で片づけられるほど、私たちは短くなかった。
彼は私の手を握っていた。昔は私より大きかった手が、その日はとても温かかった。私はその手が好きだった。包丁を持つ手も、鍵をなくして鞄を探る手も、眠る前に布団を直してくれる手も、全部好きだった。
夜が近づくころ、息をするのが少しずつ遠くなった。彼が何度も私の名前を呼んでいた。返事をしたかったが、声にならなかった。
最後に分かったのは、彼の手の温かさだった。この人と生きてきてよかった、と思った。大好きだった人が、そばにいる。そのことだけを抱えたまま、私は死んだ。
そこで、目が覚めた。
部屋は静かだった。
薄いカーテンの向こうで、朝の光が白く滲んでいる。時計を見ると、六時前だった。布団の隣には誰もいない。台所から味噌汁の匂いもしない。洗面所に歯ブラシは一本しかなかった。
私はしばらく、起き上がれなかった。
夢だった、と思うには、あまりにも長かった。夢ではない、と思うには、証拠がなさすぎた。左手に指輪はない。スマートフォンの写真にも、彼はどこにもいない。部屋のどこを見ても、彼と暮らした跡はなかった。
それなのに、胸の中だけには、確かに一生分の重みが残っていた。
失った、と思った。まだ一度も手に入れていない人を、私は朝の光の中で失っていた。泣く相手も、説明する相手もいない。そのことが、ひどくこたえた。
私は顔を洗い、いつも通り仕事へ行く支度をした。鏡の中の自分は、昨日までと何も変わらない。けれど、内側だけが少し年を取ったような気がした。
駅へ向かう道で、何度も足が止まりそうになった。あの人はどこにもいない。いるはずがない。そう思いながら、私は改札へ向かった。
彼は、向こう側から歩いてきた。

人の流れの中で、彼も足を止めた。スーツ姿で、肩に黒い鞄をかけている。夢の中より若い。けれど、横顔も、目元の癖も、考えるときに少しだけ眉を寄せるところも、私が知っている彼だった。
私たちは、しばらく何も言えなかった。
最初に口を開いたのは、彼だった。
「湖」
それだけで、十分だった。
駅の端のベンチに移った。夢の中で何度も座った古い木のベンチではない。プラスチックの座面で、広告の剥がれた跡がある。それでも、座った瞬間、胸の奥が痛んだ。
「覚えてるんですか」
私が聞くと、彼はうなずいた。
「台所も、湖も、熱を出した夜も」
私は息を詰めた。あれは私だけの夢ではなかった。
「最後、僕はあなたの手を握っていました」
彼は目を伏せた。その一言で、あの人生の最後まで、彼の中にもあったのだと分かった。
私は自分の手を見た。ついさっきまで、そこに彼の体温があった気がした。
その時、彼の左手が見えた。
指輪があった。
夢の中で何十年も一緒にいたはずの人が、現実では誰かの夫だった。その事実は、静かに、でも確かに私を現実へ戻した。
「奥さんがいるんですね」
彼は小さくうなずいた。
「います」
それ以上、何も言えなかった。
本当は、見なかったことにしたかった。指輪なんてなければいいと思った。彼の帰る場所が、今だけ消えてしまえばいいと、ほんの一瞬思った。その浅ましさに、自分でぞっとした。
夢の中で積み重ねた年月は、私にとって本物だった。けれど、目の前の現実もまた本物だった。彼には帰る家があり、待っている人がいる。そのことを、夢の記憶で軽くすることはできなかった。
その時、ホームの方で警報音が鳴った。
スマートフォンが一斉に震え、数秒遅れて床が大きく揺れた。天井の照明がきしみ、誰かが悲鳴を上げた。駅員の声がスピーカーから割れて聞こえる。しゃがんでください。柱から離れてください。命を守る行動をしてください。
揺れが収まると、彼はすぐに電話をかけた。画面には、つながらない発信履歴が重なっていく。

「妻が、家にいるんです」
彼の声は震えていた。
私は、その顔を見た。夢の中で何十年も私のそばにいた人が、今は別の人の無事を祈っている。そのことは、残酷ではなかった。むしろ、はっきりと正しかった。
助かってほしい、と心から思った。同時に、彼が今いちばん案じている相手が私ではないことに、喉の奥が冷えた。そんな自分が嫌だった。
「連絡、取れるまでここにいた方がいいです」
私はそう言った。彼は何度もうなずき、発信ボタンを押した。
しばらくして、電話がつながった。
彼は短く、何度も「よかった」と言った。声の端が崩れていた。私は少し離れた場所で、その背中を見ていた。胸が痛かった。ほっとしたのに、置いていかれたようでもあった。彼の声がやわらぐほど、私の居場所は現実の外へ押し戻されていく気がした。
地震の影響で電車は止まり、駅の外には人があふれていた。私たちは改札の脇に立ったまま、長いあいだ黙っていた。
「夢のこと、どうすればいいんでしょう」
彼が言った。
私はすぐには答えられなかった。運命、と言えば簡単だった。前世、と言えば、少しだけ美しく聞こえるかもしれない。けれど、その言葉を使った瞬間、目の前にある生活を、自分たちの気持ちのために小さくしてしまう気がした。
「起きたことなんだと思います」
「夢なのに」
「夢でも」
彼は黙った。私も黙った。
夢の中の台所を思い出した。焦げかけた鮭。薄い味噌汁。湖の朝。熱を出した夜。どれも、なかったことにはできない。けれど、あったことにして現実を壊していいものでもなかった。
「僕は、妻を裏切りたいわけじゃない」
彼が言った。
「分かっています」
「でも、あなたを知らなかったことにもできない」
その言葉に、私はうなずいた。私も同じだった。知らなかったことにはできない。けれど、知ってしまったからといって、何でも許されるわけではない。
夢の中で一生を過ごしたのなら、現実ではもう十分なのかもしれない。
そう思ったのは、諦めというより、贈られたものを元の場所へ戻すような感覚に近かった。私たちは、現実で手に入れる前に、もう一度だけ別の朝を生きたのだ。だからこそ、ここから先へ進んではいけないのだと思った。
きれいごとだけで言えるなら楽だった。本当は、選んでほしかった。夢の中の年月を証拠にして、現実の誰かから彼を奪える理由が欲しかった。けれど、その理由を探している自分を、私は許せなかった。
「会うのは、今日で終わりにしましょう」
私が言うと、彼は目を伏せた。
「そう言われると思っていました」
「私も、そう言うと思っていました」
ふたりとも少し笑った。泣きそうな顔で笑うと、人は思ったより不器用な表情になる。

夕方、電車が少しずつ動きはじめた。駅にはまだ混乱が残っていたが、空の色だけは穏やかだった。
改札の前で、私たちは立ち止まった。
「夢で会えてよかった」
彼が言った。
「私も」
嘘ではなかった。でも、本当はそれだけではなかった。夢で会えてよかった。現実で会わなければよかった。どちらも同じくらい本心だった。
それ以上を言えば、何かが崩れそうだった。だから、名前を呼び合わなかった。抱きしめもしなかった。握手もしなかった。ただ、深く頭を下げた。
彼は反対側の改札へ歩いていった。途中で一度だけ振り返った。私も、同じように振り返っていた。
それから何度か、湖の夢を見た。
けれど、そこに彼はいなかった。水面だけが静かに光り、風が草を揺らしていた。あの朝の続きは、もう始まらなかった。
目が覚めるたびに、胸の奥が少し痛んだ。でも、その痛みは、私をどこかへ引き戻すものではなくなっていった。あの夢の中で、私たちは確かに一生を過ごした。だから現実では、それぞれの朝へ帰ったのだと思う。
ある朝、駅の改札で、私はふと足を止めた。
人波の向こうに、彼の背中に似た人がいた。けれど、追いかけなかった。違う人かもしれないし、彼かもしれない。どちらでもよかった。
電車が来る音がした。
痛みが消えたわけではない。消えないまま、私はそれを持って歩くしかなかった。
私は改札を抜けた。今日の朝は、私のものだった。