
わたしのママは、きっと魔法のエプロンを持っている。
学校の友達に話しても、誰も信じてくれない。だけど、わたしは知っている。
ママがキッチンでエプロンの紐をキュッと結ぶと、ただのママではなくなる。
あのエプロンは、ママをパリの朝市や、スパイスのにおいがするお店や、名前も知らない遠い国まで連れていってくれるのだ。
だって、昨日の夕飯は、見たこともないスパイスのいい香りがするトルコ料理だった。
そして、今日の朝食は、おしゃれなカフェみたいなフレンチのガレット。
フランスのパリにいるみたいな気分になれる、とってもおいしい朝ごはんだ。
「今日はちょっとパリまで仕入れに行ってくるわね」
なんて、ママは冗談めかしてウインクする。
ママは昼間、とても忙しそうに働いている。
それなのに、夕飯や朝ごはんになると、まるでどこかの国へひとっ飛びしたみたいな、きれいでおいしいごはんがテーブルに並ぶ。
やっぱり、ママには秘密の魔法があるに違いない。
ある日の夕方、わたしはママをびっくりさせようと、足音を立てずにキッチンをのぞき込んだ。
「あいたたた……」
小さく聞こえた声。
のぞいてみると、ママが真剣な顔をして、指に絆創膏を巻いているところだった。
キッチンの台の上には、何冊もの分厚い料理の本。
スマホの画面には、「子どもが喜ぶ、世界の簡単レシピ」という文字が開いたままになっている。
そこには、空を飛ぶ魔法なんてどこにもなかった。
わたしはドアの影から、じっとママを見つめた。
なんだ。
やっぱりパリになんて行ってなかったんだ。
トルコにも、イタリアにも。
胸の中でふくらんでいた秘密の物語が、しゅるしゅると小さくしぼんでいく。
少しだけ、がっかりした。
だけど、料理の本とスマホを何度も見比べながら、難しい顔で鍋をかき混ぜるママから、目が離せなかった。
ママは、わたしの知らない国の料理を、何度も調べて作ってくれていたのだ。
わたしが「おいしい!」って笑うように。
お仕事で疲れているはずなのに。

「あ、見つかっちゃった」
ママはちょっと恥ずかしそうに、絆創膏のついた手でエプロンを直した。
そのエプロンには、トマトソースの小さなシミがついていた。
少ししわになっていて、いつものエプロンより、くたっとして見えた。
魔法じゃなかった。
ママは空を飛んでいなかった。
でも、わたしのために、こんなにがんばってくれていた。
そう思うと、胸の奥があたたかくなった。
それでも、胸のすみっこには、ちょっとだけ、残念な気持ちも残っていた。
そのとき、ママが鍋のふたを開けて、少し困った顔をした。
「あ、しまった」
「どうしたの?」
「あの香りを入れ忘れちゃった。あれがないと、この料理にならないのよね」
「スーパーで買うの?」
わたしが聞くと、ママはほどけかけたエプロンの紐に手をかけた。
「ううん。あれは、あっちの市場じゃないとね」
「あっち?」
ママは、はっとしたように笑った。
「なんてね。そうだ、宿題のプリント、終わったら見せてくれるって言ってたでしょ。取ってきてくれる?」
わたしはうなずいて、キッチンを出た。
部屋へ向かいながら、少しだけ振り返る。
ママは、エプロンの紐をきゅっと結び直しているところだった。
プリントを持って戻ると、ママはもう、いつもの顔で鍋をかき混ぜていた。
でも、台所には、さっきまでなかった香りがふわりと広がっていた。
「……あったの?」
わたしが聞くと、ママはスプーンを持ったまま、にっこり笑った。
「なにが?」
わたしは何も言わなかった。

ただ、ママのエプロンを見つめた。
トマトソースの小さなシミ。
少しほつれたポケット。
どう見ても、いつものエプロンだ。
だけど、その紐は、さっきより少しだけ強く結ばれているように見えた。