
私は、よく傘をなくす。
電車の網棚。喫茶店の傘立て。会社の会議室。駅のトイレの個室。雨が上がった帰り道には、傘を持って家を出たことさえ忘れている。
なくしたことに気づくのは、たいてい次に雨が降った日だ。玄関を出て、あ、傘がない、と思う。そのたびにコンビニに寄って、透明のビニール傘を買う。家には同じような傘が何本もあったはずなのに、必要なときにはいつも見つからない。
でも、困っているかと言われると、そうでもなかった。
ビニール傘なら、なくしてもそれほど惜しくない。誰かが間違えて持っていっても、腹を立てるほどのことでもない。傘立てに入れた瞬間に、自分のものではなくなるような気がしていた。
傘とは、そういうものだと思っていた。
なくしても困らないものを選んでおけば、なくしたときに傷つかずに済む。
その日も、朝から雨が降っていた。
天気予報では昼過ぎにはやむと言っていたのに、夕方になっても雨脚は弱まらなかった。会社を出るころには、アスファルトが黒く濡れ、ビルの窓には灰色の空がぼんやり映っていた。
いつもなら、駅前のコンビニに寄るところだった。
けれど、その日は少し違った。
駅へ向かう途中、アーケードの端にある小さな傘屋の前で、ふと足が止まった。
その店の前は何度も通ったことがある。けれど、中に入ったことは一度もなかった。傘を専門に売る店があること自体、私には少し不思議だった。傘なんて、雨の日に必要になったら買うもので、前もって選ぶものではないと思っていたからだ。
店先には、黒や紺の傘がきちんと並んでいた。どれも、まっすぐ立っている。ビニール傘のように、どこか所在なさげに束ねられているのとは違った。

奥の棚に、一本だけ深い青色の傘があった。
派手な青ではない。夜になる少し前の空のような、静かな色だった。
手に取ってみると、思っていたより軽かった。布の張りがきれいで、持ち手は木でできていた。指を添えると、手の中に自然に収まる。
値札を見た。
ビニール傘の十倍以上はした。
私は思わず、傘を棚に戻しかけた。
どうせまたなくすかもしれない。そう思うと、自分には少しぜいたくすぎる気がした。傘にこんなお金を出すくらいなら、安いものを何本か買ったほうがいい。そういう考え方のほうが、私には慣れていた。
でも、手を離す直前で、なぜか迷った。
なくすことを前提に選ぶのではなく、しばらく一緒に歩くものとして選んでみてもいいのではないか。
そんなことを、ふと思った。
私は棚に戻しかけた青い傘を、もう一度手に取った。
「こちらをお願いします」
青い傘を差し出すと、店の奥にいた年配の店主が顔を上げた。店主は傘を受け取り、布の向きを確かめるようにゆっくりたたみ直した。
「いい傘ですよ」
店主はそう言って、細長い紙袋に傘を入れた。
「こういう傘は、持つ人のことを案外よく覚えています」
私は曖昧に笑った。
その言葉の意味は、まだわからなかった。
店を出て、さっそく青い傘を開いた。
開くときの音が、いつもの傘と違った。ぱさり、ではなく、すっと空気を含むような音がした。雨粒が布に当たる音も少しやわらかい。透明なビニール越しに見る雨とは違い、青い布の下では、世界が少し落ち着いて見えた。
傘一本でこんなに気分が変わるものなのかと思った。
そういえば、昔から青い色は好きだった。色鉛筆でも絵の具でも、青だけはいつも先になくなった。いつからそんなことを忘れていたのか、自分でもわからなかった。
その夜、家に帰ってから、私は玄関で少し迷った。
いつもなら、傘はドアの横に適当に立てかける。濡れていようが、曲がっていようが、あまり気にしない。けれど青い傘は、そこに置くには少し違う気がした。
結局、古い傘立てを片づけ、底にたまっていた埃を拭いた。そこに青い傘を一本だけ立てた。

玄関が、ほんの少し整ったように見えた。
翌朝も雨だった。
私は青い傘を持って家を出た。電車では網棚に置かず、膝の横に置いた。会社に着いてからも、共用の傘立てに入れるのが少し不安で、自分の席の近くに立てかけた。
「いい傘ですね」
隣の席の人に言われた。
「昨日、なんとなく買って」
そう答えると、自分でも少し照れくさかった。傘を褒められたことなど、これまで一度もなかった。
それからしばらく、私は青い傘を大事に扱った。
雨がやんでも、手に持っていることを忘れなかった。喫茶店では傘立てに入れず、席の横に置いた。電車を降りるときには、必ず手元を確認した。
傘を一本大事にしているだけなのに、自分の生活まで少し丁寧になったような気がした。
ただ、そういう緊張も、時間がたつと少しずつ薄れていく。
最初に青い傘をなくしたのは、買ってから二カ月ほどたった金曜日だった。
そのころには、青い傘はもう、少し特別な買い物ではなくなっていた。雨の日に玄関で自然に手に取るものになり、電車を降りるときに確認するものになり、家に帰れば同じ場所に戻すものになっていた。
雑に扱うようになったわけではない。
ようやく、自分の生活になじんできたのだと思う。
その日は午後から急に雨が降り出した。仕事が長引き、帰るころには疲れていた。駅まで歩く途中、ふと見覚えのある商店街に出た。
普段は通らない道だった。
雨宿りのつもりで、古い喫茶店に入った。入口の傘立てには、先客の傘が何本か入っていた。私は少し迷ったが、青い傘をそこに入れた。
店内は静かだった。壁には古い時計があり、窓際には観葉植物が置かれていた。コーヒーを頼み、しばらくぼんやりと雨を眺めていた。いつの間にか、雨は小降りになっていた。
会計を済ませ、店を出た。
家に着いて、玄関の前で気づいた。
青い傘がない。
体の中が、すっと冷えたような気がした。
いつものビニール傘なら、「またか」と思って終わりだった。けれど、その日は違った。喫茶店の傘立てに入れたことも、出るときに取らなかったことも、はっきり思い出せた。
私は店に電話しようとして、営業時間を調べた。けれど、その喫茶店の名前が思い出せなかった。商店街のどのあたりだったのかも、雨と疲れのせいで曖昧だった。
スマホを手に持ったまま、玄関に座り込んだ。
やっぱり自分には、少しいいものを持つ資格がなかったのかもしれない。
そんな言葉が浮かんで、自分で少し驚いた。
傘をなくしただけだ。大げさだと思った。でも、その傘をなくしたことより、なくすとわかっていた自分が嫌だった。
翌朝、玄関に青い傘があった。
最初は、自分が持って帰っていたのだと思った。
けれど、そんなはずはなかった。昨夜、私は確かに傘がないことに気づいた。喫茶店のことを思い出そうとして、スマホで地図を開いた。玄関でしばらく座っていた。その記憶は残っている。
青い傘は、傘立てにまっすぐ立っていた。
私は傘に触れた。
布は乾いていた。持ち手も、いつもと同じように手になじんだ。
そこにあることより、そこにあるのが当たり前みたいに立っていることのほうが、少し怖かった。
それからも、青い傘を置き忘れることは何度かあった。
会社の傘立て。駅のベンチ。友人の家の玄関。雨が上がると、私はまだ以前の癖で、傘のことを忘れてしまうことがあった。
そのたびに、青い傘は翌朝の玄関に戻っていた。
最初は怖かった。
けれど何度か続くうちに、私はそのことを誰にも言わなくなった。説明できないことは、説明しようとすると急に安っぽくなる気がした。
ただ、傘が戻るようになってから、もうひとつ変わったことがあった。
青い傘を持って出た日は、なぜかいつもと違う道を選んでしまう。
最初は、駅の出口を間違えただけだった。いつも使う東口ではなく、西口に出てしまった。戻るのが面倒で、そのまま遠回りして会社に向かった。
次は、雨宿りのために入ったアーケードが、思っていたより長く続いていた。通り抜けた先に、知らない路地があった。知らないはずなのに、どこか見覚えがあった。
その次は、仕事帰りに一駅手前で降りた。理由はなかった。青い傘を持ったまま、雨の中を歩いてみたくなった。
そうしているうちに、私はある商店街の前に立っていた。
そこは、学生のころによく通っていた場所だった。
古いパン屋は、別の店になっていた。文房具屋はシャッターが下りていた。アーケードの天井には、ところどころ雨染みがあった。
でも、その通りの奥に、まだ一軒だけ残っている店があった。
画材店だった。

私は足を止めた。
昔、何度もその店の前を通った。中に入ることもあった。スケッチブックや鉛筆、絵の具のチューブを眺めるのが好きだった。買えないものも多かったけれど、見ているだけで、自分にも何か描けるような気がした。
いつから行かなくなったのか、覚えていない。
たぶん、忙しくなったころからだ。仕事を始めて、毎日が予定で埋まって、机の上からスケッチブックが消えた。描かない理由はいくらでもあった。
時間がない。
うまくない。
今さら始めても仕方がない。
趣味にしては中途半端だ。
ガラス越しに、スケッチブックの白い背表紙が見えた。
それだけで、少し苦しくなった。
好きだったものの前に立つのは、思っていたより面倒だった。ただ懐かしいだけでは済まない。そこには、やめた理由まで一緒に残っている。
私はしばらく店の前に立っていた。
けれど、中には入らなかった。
入ったところで、何を買えばいいのかわからなかった。描きたいものがあるわけでもない。誰かに見せたいわけでもない。昔好きだっただけで、今の自分に必要なものではない。
そう思って、私は通り過ぎた。
青い傘の先から、雨粒がぽたりと落ちた。
その夜、傘屋の店主の言葉を思い出した。
「こういう傘は、持つ人のことを案外よく覚えています」
あのときは、傘を大事にすれば長持ちする、という意味だと思った。
でも違うのかもしれない。
青い傘が覚えていたのは、私の家だけではなかったのかもしれない。
玄関より前に、戻る場所があった。
そんな気がした。
数日後、また雨が降った。
朝から静かな雨だった。窓を開けると、遠くの車の音が少しやわらかく聞こえた。
私は玄関で青い傘を手に取った。
その日は、会社へ行く前に少しだけ遠回りをした。いつもの駅ではなく、一駅先まで歩いた。雨の中を、青い傘を差して歩いた。
商店街に着くころには、靴の先が少し濡れていた。
画材店は開いていた。
入口のガラス戸を引くと、小さな鈴が鳴った。店の中には、紙と木と絵の具の匂いがした。学生のころと、ほとんど変わっていない気がした。
棚には、スケッチブックが並んでいた。
私は一冊を手に取った。表紙の手触りが、記憶のどこかに残っていた。ページを開くと、白い紙があった。何も描かれていないのに、少し緊張した。
鉛筆も一本買った。

会計のとき、店の人に「雨の日は紙が湿気を吸いやすいので、袋を二重にしておきますね」と言われた。
それだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなった。
店を出ると、雨はまだ降っていた。
私は青い傘を開き、スケッチブックの入った袋を胸に抱えた。特別なことをしたわけではない。人生を変える決意をしたわけでもない。明日から毎日描くと決めたわけでもない。
ただ、一冊買った。
それだけだった。
でも、それだけで十分な気がした。
忘れていたというより、忘れたことにしていたのだと思った。
家に帰るころには、雨は上がっていた。
玄関に入り、私は青い傘をたたんだ。布の水滴を軽く払い、傘立てにまっすぐ立てた。
机の上には、買ってきたスケッチブックを置いた。袋から出し、一ページ目だけ開いた。鉛筆も横に置いた。
何も描かなかった。
それでも、白いページがそこにあるだけで、部屋の空気が少し変わったように感じた。
翌朝、青い傘はいつもの場所にあった。
青い傘は、今日も玄関にある。
今度は、私がそこへ戻したのだと思う。