
夢の中で、彼に出会った。
名前も知らないのに、言葉を交わす前から、心が静かに震えていた。
彼は私の手をとり、森を歩き、湖を見下ろし、花の咲き乱れる野原へ導いた。
空は青く澄み、風はやさしく頬を撫でる。
音のない音楽のように、すべてが美しかった。
――そして、野原の果てに、古びた駅のホームがあった。
時計は止まっていて、誰もいないベンチに朝の光だけが差していた。
彼は立ち止まり、まっすぐ私の目を見た。
「君は、僕の魂の伴侶だ」
その声が胸の奥に染み込み、静かに満ちていった。
「僕たちは、何度も生まれ変わって、探し続けてきたんだ」
*
朝、静かに目を覚ました。
まだ外は薄暗く、時計は6時前。
布団の中で、彼の言葉を思い出す。
夢のはずなのに、あまりにも鮮やかで、輪郭が消えなかった。
通勤電車。春の光。ページをめくる手。
どこかに、彼がいるような気がしてならなかった。
駅の改札へ向かう途中、ふと――彼がいた。
人波の中、こちらへ歩いてくる。
スーツ姿。肩にかけたカバン。
そのまなざしに、夢と同じ静けさがあった。
私たちは立ち止まり、見つめ合った。
「君は……」と彼が言う。
気づけば、駅の端のベンチに向かい合っていた。
――夢の中で見た、あのベンチとまったく同じ場所だった。
「夢を見たんです」私が言うと、彼は少し笑った。
「僕も。君と森を歩いた。湖も、花畑も……全部」
「それって……」
「不思議だけど、嬉しかった」
沈黙。
そして、彼の声が落ちる。
「……ただ、僕には妻がいます」
その言葉に、胸が痛んだ。
でも、彼の目は真剣で、苦しげだった。
「君に出会って、心が揺れた。こんなこと、あるんだなって……」
そのときだった。
大きな揺れが襲った。
床が波のように揺れ、人々の悲鳴。スマホの警報が一斉に鳴る。
「大規模な地震が発生しました。命を守る行動を……」
彼は何度も妻に電話をかけた。けれど、つながらなかった。
「……応答がないんだ」
彼の顔が青ざめ、声が震えていた。
私は、そっと彼の手を握った。
「きっと、無事だよ」
それは祈りだった。願いだった。
けれど、現実は容赦なかった。
津波、余震、噴火。崩れていく町。崩れていく日常。
彼の妻も、その中にいた。
もう、戻ってこなかった。
*
奇跡のように、私と彼は生き残った。
瓦礫の間で助け合い、
避難所で毛布を分け合い、
言葉より、静かなまなざしで支え合った。
やがて、私たちは一緒に生きるようになった。
何もかもが変わってしまったあと、
ようやく始まった新しい日々。
野に咲く花に笑い、
あたたかなスープに感謝し、
手をつないで眠る夜が増えていった。
恋をした。
怖れながら、でも確かに、ふたりで未来を選んだ。
やがて子どもが生まれた。
ある夜、ふたりで名前を考えた。
避難所の薄い明かりの下、毛布にくるまれながら、
彼は静かに言った。
「名前に、“光”って入れたい」
「うん、いいね。生きて、生まれて、ここまで来たから」
私たちは、揺れる光の中で何度も候補を読み上げ、
そのたびに笑い、涙があふれた。
その夜の温度を、私は今でも覚えている。
*
いつしか、その手はしわに包まれ、
言葉はゆっくりになり、
ふたりで年老いていった。
でも、手は決して離れなかった。
最後の瞬間まで、
「ありがとう」と「愛してる」が交わされた。
そして、静かに――死を迎えた。
・
・・
・・・
テレビの音で、我に返る。
「今朝、東京湾を震源とする小規模な地震がありました。
震度3。被害の報告はありません」
私は、彼の隣に座っていた。
朝の光がカーテンを透けて揺れ、テーブルにはコーヒーの湯気。
すべてが、あまりにも“ふつう”だった。
「……今の、何だったんだろう」
彼がぽつりとつぶやく。
「夢だったのかな」
私たちは、見つめ合った。
何も言わなくても、すべてが伝わっていた。
あれはただの夢じゃない。
たしかに、私たちは生きていた。
もうひとつの人生を――すべて、まっすぐに、愛して。
「ありがとう」
「こちらこそ」
ふたりの声が重なった瞬間、
胸の奥で、ひとつの物語がそっと幕を閉じた。
そして、私たちはそれぞれの今へと帰っていった。
でも、忘れなかった。
もうひとつの朝に、ふたりで見た景色を。
夢の向こうで、本当に生きた記憶を。
それは、未来でまためぐりあうための、
小さな永遠だった。