彼は毎朝、鏡を見ることが習慣になっていた。
けれど、そこに映る自分の顔には、もう長い間、温度がなかった。
無表情。疲れた目。形ばかりの呼吸。
それを見ても、何も感じなくなっていた。
日々は繰り返されるだけ。
心は、遠くに置き忘れてきたようだった。
「……こんな人生、意味があるのか」
ふと漏れた言葉が、
まるで水に落ちた小石のように、鏡の奥へ消えていった。
その瞬間、鏡の表面が静かに波打つ。
彼は反射的に目を閉じた。
まぶたの裏で、何かが変わる気配がした。
目を開けると、そこは森だった。
夜のように静かで、けれど光が満ちている場所。
風が木々を揺らし、どこかで水音がする。
彼は歩き出した。
靴の下の土は柔らかく、身体が妙に軽かった。
音のする方へ向かうと、小さな池があった。
水面に目を落とすと、自分の顔が映る。
……違う。
鏡の中と、何かが違っていた。
そこにいたのは、穏やかで、優しく微笑む自分だった。
「……これが、本当の俺……?」
池が小さく揺れた。
そして、水の底から声が聞こえた。
「そうさ。それが、君だよ」
「……誰だ?」
「君の中にいる、もうひとりの君だよ」
不思議と怖くなかった。
ただ、彼は問いかけた。
「じゃあ……ずっと見てたのか?」
「うん。ずっと待ってた。君が、自分自身を思い出してくれるのを」
「思い出す?」
「そう。君は、ここに来る前、すべてを終わらせようとしていた」
言葉の重さが胸にのしかかる。
でも、それを否定する気持ちはどこにもなかった。
水に手を伸ばすと、指先が小さく震えた。
水は、冷たいはずなのに――やわらかい温度を持っていた。
ふと、手のひらを見た。
青いインクの染みが、滲んでいた。
なぜだろう、と思った瞬間、心がざわめく。
記憶が、ノックをしてくる。
――鉛筆の感触。
――ノートに夢中で書き込んだ夜。
――誰にも見せていない、たったひとりの読者に向けた物語。
胸が熱くなった。
自分でも、理由がわからなかった。
けれど、手のひらが覚えていた。
――彼は、かつて物語を書いていた。
――その言葉に、自分の命を込めていた。
書くのが好きだった。
伝えたかった。
あの頃の彼は、それを信じていた。
でも、いつしか遠ざけた。
「意味なんてない」
「そんなもの、何になる」
そうやって、忘れたふりをした。
けれど――
「君は、本当は知ってるよね」
池の中の彼が、静かに言った。
「まだ書きたかったんだろう?」
答えはなかった。
けれど、胸の奥が、ひとつ頷いた。
「……俺、まだやり直せるかな」
「大丈夫。ゆっくりでいい。
君は、君であればいい」
その瞬間、森に風が吹き抜けた。
木々がざわめき、光がこぼれ、肌が震える。
息を吸う。胸が熱い。心臓が確かに脈打っている。
生きている。身体の隅々まで、それを感じる。
「でも……戻らなきゃいけないんだよな」
「そうだね。でもね、僕はどこにいても、君と一緒にいる」
「それは……心の中にってこと?」
「うん。君が君を忘れなければ、僕はずっとここにいる」
彼は深く息を吸った。
森の空気が、血の中にまで満ちていく。
「……ありがとう。君に会えてよかった」
「こちらこそ。君が来てくれて嬉しかった」
水面に光が差し、そこに再び鏡が現れる。
彼は最後にもう一度、池に映る自分を見て言った。
「さよなら。また会おう」
「また会おう。いつでもここにいるよ」
鏡をくぐるようにして、彼は現実の世界に戻った。
そこは変わらぬ自分の部屋。
けれど、すべてが違って見えた。
鏡に映った自分は、池の中と同じ顔をしていた。
静かで、やわらかな笑みを浮かべていた。
彼は立ち上がる。
手のひらには、もうインクの染みはなかった。
でも、その感触は、確かに残っていた。
ゆっくりと窓を開けた。
冷たい空気が肌を撫で、どこか遠くで朝の鐘が鳴る。
目の前の景色が、まるで昨日と違って見える。
空が広く、風が軽く、世界が鮮やかに呼吸している。
彼は、ドアの前でふと立ち止まり、つぶやいた。
「俺は、まだ書ける。」
そして、一歩を踏み出した。
昨日よりも、少しだけ確かな足取りで。