
彼女の名前を、僕は知らない。
けれど、名前がなくても、わかる。
目が合えばすぐに、心がひらくようにして彼女を認識する。
それは、いつも繰り返される“初対面”だ。
そして、いつも少しだけ遅れて、懐かしさがやってくる。
彼女は少し戸惑っている。
けれど、逃げようとはしない。
その静かな目が、僕の輪郭を追っている。覚えているようなまなざしで。
そっと手を伸ばすと、彼女が静かにその手を取る。
それは、彼女の心も僕を知っているという証だった。
忘れさせられていたぬくもりを思い出している。
僕たちは、どこかの街を歩くこともあれば、
見知らぬ部屋で、ただ向かい合って静かに座ることもある。
言葉は少ない。けれど、沈黙でも心地よい。
触れるたび、眼差しを交わすたびに、
過去のどこかで確かに交わしたはずの時間が、
もう一度、そこに灯るような気がする。
彼女の髪を撫でると、彼女が目を伏せながら微笑む。
それがどんな夜よりもあたたかい。
帰り道、どこかの広場で立ち止まる。
僕はポケットから、小さなネックレスを取り出す。
いついれたのか記憶はないが、そこにあることだけは知っていた。
「これを、君に送りたい」
彼女はそっと受け取り、胸元に抱く。
「ありがとう」
彼女は泣きそうな顔をして、微笑んだ。
別れの予感は、いつも唐突に訪れる。
空気が変わる。まるで夢そのものが後ろから引っ張られていくように。
「また、君に会いたい。会えるよね。」 僕は、そう告げる。
それが、僕の唯一の願いだから。
彼女は泣き笑いの表情で応える。
「私も。すぐに、また会いたい」
「約束しよう。きっと、また会える」
彼女はこくんと頷く。
夢が静かに崩れていく音がする。
──目が覚める。
部屋は静かで、窓の外は朝の光に満ちている。
胸の奥に、心をやさしく満たすようなぬくもりが、かすかに残っている。
それは、誰かと深くつながっていたあとの静けさのような感覚。
そして同時に、その何かを失ったような、満ち足りた記憶が抜け落ちたような、
ぽっかりとした喪失感もある。
誰に会っていたのか、なにを話していたのかは思い出せない。
けれど、きっと大切な誰かに出会っていたのだと思う。
名前も、声も、何一つ記録されていない。
でも、確かに「誰か」がいた気がする。
涙ではない、でも涙のような感情が、ゆっくりと胸を満たしていく。