記録されない夢の地図

       
記録されない夢の地図

彼女の名前を、僕は知らない。
けれど、名前がなくても、わかる。
目が合えばすぐに、心が立ち上がるようにして彼女を認識する。
それは、夢の中だけで繰り返される“初対面”だ。
何度目かの、最初の出会い。

彼女はいつも少し戸惑っている。

けれど、手を取ると、その指先が震える。
皮膚が僕を思い出している。
言葉よりも速く、心よりも確かに。

「また、君に会えたね」
僕は言う。
それが、僕に残された唯一の確信だから。

彼女は泣き笑いの表情で返す。
「私も。……でも、また忘れちゃうんだよ」

それを聞くたび、僕の中の何かが静かに崩れる。
それが骨なのか、時間なのか、それとも祈りなのかはわからない。
ただ、彼女の記憶の中から僕が消えていく音だけが、はっきりと聞こえる。

夢の中で、僕たちは同じ言葉を繰り返す。
でも、それは決して“同じ”ではない。
毎回、声の高さが違う。まなざしが違う。
わずかなズレが、再会と喪失を同時に運んでくる。

目覚める。
部屋は静かで、空はまぶしく、
隣には誰もいない。
けれど、指先にまだ感触がある。
あの人の肌のぬくもりが、消えずに残っている。

それだけで、今日もまた、夢を見る準備ができる。
彼女が自分を覚えていなくてもいい。
違う誰かとして現れてもいい。

ただ――
まなざしが交われば、それでいい。

僕はまた眠りに落ちる。
記録も証明もされない夢の地図をたどって、
名前のない彼女に、
名前のない僕として、もう一度、会いにいく。

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