
靴の中で、何かが指先に触れている。
中敷きのズレでも、石ころでもない。
もっと異質だ。
冷たい。硬い。存在感だけが強い。
朝の眠気の中でも、確実に「異物だ」とわかる。
立ち止まって、靴を脱ぐ。
中に転がっていたのは、赤いボタン。
小さな円。金属。配線はない。
押すために作られているのに、どこにも“つながっていない”。
それが何より気持ち悪い。
なぜここに? 誰が? どうして?
思考が全部跳ね返される。
残るのは、“押したら何かが起きる顔”をした赤。
捨てるか、交番か、無視か。
どれにも心が動かないまま、私はそれをポケットに入れている。
なぜなら、怖さより先に、もうすでに「これは自分のものだ」と感じてしまっているからだ。
会社に向かう途中、ポケットの中でそいつは静かだ。
でも、沈黙の仕方に圧がある。
動いていないのに、「動き待ち」の気配を放っている。
エレベーターで上司と乗り合わせたとき、
そのボタンの存在がふと気にかかる。
なぜか、「押した瞬間にこの人が本当の姿を見せるんじゃないか」という妄想が脳内をよぎる。
怖い。けど、面白い。
昼、自販機の前で一度、指がボタンに触れる。
でも、何も起きていないのに、通行人がこちらを二度見していく。
犬も、足を止める。
風も、一瞬だけ空気のチャンネルを変えたみたいな手ざわりになる。
なのに、私はまだ押していない。
理由はわからないが、「今じゃない」気だけがやたらとはっきりしている。
そうして夕方になる。
ポケットの中のボタンは冷たく、どこにもつながっていないまま、
私の現実に「何かの待機状態」を持ち込んでいる。
そして今、
帰り道のエレベーター。
誰もいない空間で、私はポケットの中の赤を押してみる。
カチッという手応え。
小さな音。
だが、光らない。振動もない。警報も鳴らない。
何も起きていない。
けれど――
世界が「何も起きなかったという劇的さ」で満ちていく。
エレベーターの床が、ミリ単位で斜めになっている。
鏡の中の自分が、私の動作と0.3秒ズレている。
天井の照明が、ほんの一瞬、呼吸した。
そして確信する。
このボタンは効いている。
目に見えるものはそのままでも、現実の“綴じ目”がほどけはじめている。
しかも、それを知っているのは、世界の中で今、私ひとりだけだ。
ポケットの中でボタンがまた、何かを待っている。
押し返してくる感触がある。
静かに、また呼ばれている気がする。