
彼の名前を、私は知らない。
けれど、なぜだろう。名前がなくても、すでに心のどこかで知っている気がする。
見つめ返されたその瞬間、胸の奥で何かがゆっくりとほどけていく。
思い出せないはずの誰かを、思い出してしまいそうになる。
彼のまなざしはまっすぐで、少しだけ不安げだった。
けれど、目をそらそうとはしない。
ことばも記憶も通じない場所で、それでも私を確かめようとしているように。
差し出されたその手に、私はそっと自分の手を重ねた。
その瞬間、全身がふわっとあたたかくなる。
指先が記憶しているような感触だった。
この人の手を、私はもう何度も取っている――
そう思えてしまうほど、自然なぬくもりだった。
ふたりで、どこかの街を歩くこともあれば、
見知らぬ部屋で、ただ向かい合って座ることもある。
時間が止まってしまったような静けさの中、
彼の気配だけが、やさしく寄り添ってくる。
私は何も話さない。けれど、それがとても満たされている。
彼が私の髪にそっと触れる。
そのしぐさに、心がつんと締めつけられて、
目を伏せながら、小さく微笑んだ。
笑みがこぼれるのは、あたたかさのせいか、それとも、こらえている涙のせいか。
やがて、どこかの広場で立ち止まる。
彼がポケットから、小さなネックレスを取り出す。
その仕草が、とてもゆっくりに見えた。
私は息をひそめるようにして、その手元を見つめていた。
「これを、君に送りたい」
彼の声がそう告げたとき、胸がきゅっと鳴った。
私の手のひらにのせられたその小さなかたちが、何よりも重かった。
初めて見たのに、どうしてこんなに懐かしいのだろう。
「ありがとう」
私は泣きそうな顔で微笑んだ。
そうするしかなかった。言葉をつづけると、涙がこぼれてしまいそうだったから。
そして、空気がふっと変わる。
夢が静かに終わろうとしているのが、わかる。
肌に、空に、足元の感触に、それがにじみはじめる。
「また、君に会いたい。会えるよね」
彼の声が聞こえる。もう少しだけ遠くに。
「私も。すぐに、また会いたい」
「約束しよう。きっと、また会える」
私はこくんと頷いた。
たとえ言葉を忘れても、想いだけは残る気がした。
夢が崩れていく音がした。
──目が覚める。
カーテン越しの朝の光。息をのむほど静かな現実。
さっきまでのあたたかさが、まだ胸にうっすら残っている。
けれどそのすぐ下で、何かが抜け落ちたような空白がひろがっている。
胸元に、思わずそっと手を当てる。
どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。
でも、そうしたくなった。
ぬくもりを、確かめたくなったのだと思う。
なにか、大切な夢を見ていた気がする。
それが人だったのか、出来事だったのか、自分でもよくわからない。
けれど、その何かが、私の奥にふれていた気がする。
涙ではない。でも、涙に近いものが胸ににじんでくる。
言葉にならない感情が、胸の奥にとどまり続けている。
夜が近づくたび、私はそっと願う。
どうか、また、あの夢を。
あのあたたかさに、もう一度ふれられますように。
胸の奥が覚えている。
ふれてはいけない静けさのような、あたたかい何かを。