
彼の名前を、私は知らない。
けれど、その響きだけは、何度も心の奥で呼んでいる気がする。
声にはならない。言葉にもならない。
けれど、まるで眠りの底に沈んだベルの音――
触れれば壊れてしまいそうな、震えだけが残っている。
彼は、夜になると訪れる。
夢の中。誰にも知られない場所。
言葉を交わさなくても、目を見ればわかる。
彼は私のことを知っている。
私より、深く。静かに。
そのまなざしにふれられるたび、胸の奥がきゅっと軋む。
涙になる直前の悲しみと、名前のない恋しさとが、音もなくあふれてくる。
彼が私の手を取ると、身体が思い出す。
指先の温度、頬を撫でる手のひらの重さ。
言葉じゃない記憶。
皮膚が先に「このひとだ」と言っている。
私は、もう何度もこの人に触れられている。
何度も、何度も、出会っては別れている。
けれど、そのどれひとつも起きていないことのように、
目覚めるたび、すべてを失っている。
「また、君に会えた」
彼は時折、そう囁く。
その声は風みたいだ。
聞いた瞬間には、もう過去になってしまうような音。
「でも……会えば会うほど、忘れていく」
「私も」
私は笑いながら泣いていた。
「会うたびに、あなたをもっと好きになるのに、
目覚めるたびに、あなたを思い出せなくなるの」
夢の中で、私たちは何度も出会い、
何度も同じ会話を交わし、
何度も、朝に引き離されていく。
まるで、夢という名前の砂時計に閉じ込められた恋人たちみたいに。
目を覚ます。
カーテン越しの朝の光。いつもの天井。
けれど、心だけがその人のかたちをした空洞を残している。
私はその空洞を、誰にも見せずに持ち歩く。
理由のわからない寂しさと、思い出せない誰かへの恋しさ。
まぶたの裏で、記憶の輪郭をなぞりながら。
夜が来るたび、私は願う。
どうか、またあの夢を。
また、あの人に会えますように。
たとえ、明日にはまたすべてを忘れてしまうとしても。
たとえ、言葉も顔も名前さえも消えてしまうとしても。
私は、何度でも恋をする。
夢にしか存在しない、たったひとりのあなたに。