風は貨幣を知らない

       
風は貨幣を知らない

私はずっと、お金というものに、うまく向き合えないまま大人になった。
それは必要なものであり、怖いものであり、時に魅力的で、時に重たく感じるものだった。

財布に残る紙幣の数と、心の余裕はいつも反比例していた
お金があるときには未来が開けて見えて、
ないときには、自分の存在そのものが薄れていくような気がした。

大学時代、私は小さな喫茶店でアルバイトをしていた。
店はいつも静かで、午後の光が床に模様を描くような、そんな場所だった。

その店に、毎週同じ時間に来る年配の男性がいた。
注文は決まって、ブラックコーヒー一杯だけ。
そして本を開き、何時間も黙って読みふける。

ある日、私がカウンターでコーヒーを淹れていると、その男性がぽつりと言った。

「君、お金ってなんだと思う?」

唐突な問いだった。私は手を止めて考えた。
「……自由を手に入れる道具、ですかね」

男は小さく笑った。
「それもひとつの答えだ。でも私はね、お金って“風”みたいなものだと思ってるんだよ」

「風?」

「うん。誰のものでもない。つかもうとすればすり抜けて、手放すと戻ってくることもある。流れを読むことが大事なんだ」

すぐには理解できなかったが、その言葉は不思議と胸に残った。

社会に出て、私はお金を得るために働いた。
仕事は順調だった。収入も増えた。
けれど心のどこかで、いつも「足りない」と感じていた。

預金残高は増えても、夜は静かだった。
奢ったり贈ったりするたびに、どこかで「損をしている」ような気がした。

ある春の夕方、私はふと公園に立ち寄った。
陽が落ちる頃、肌を撫でる風に身を任せると、あの喫茶店の記憶がよみがえった。

「風は、流れているときがいちばん心地いい」
男の声が、まるで今そこでささやかれたかのように蘇った。

その瞬間、私は気づいた。
お金は、自分の中を通り過ぎていく“流れ”だった。
誰かを助けたり、何かを生み出したり、想いを届けたりするための――媒介。

手元にあることより、どう流すかが大切だった。

私はポケットの中の小銭を確認し、近くの自販機でオレンジジュースを2本買った。
そして、隣に座っていた男の子に手渡す。

「ありがとう!」
子どもの声が風に乗って空に舞った。

そのとき、私はようやく理解した。
お金は風のようなもの――
だからこそ、美しく使うことができる。

そして、心の奥にふっと、小さな自由が芽生えた。

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